虎跳峡
本日は虎跳峡を現地指導。6000メートル近い山々の断崖絶壁の下に、最上流域の長江が流れ、峡谷は最も深いところで2000メートル近くに達する。。。というか言葉ではとても説明できない、超世界的な光景の中を、一歩一歩トレッキングした。
峡谷に沿った車道は遥かチベットまでつながり、上に5600メートルの山々を望み、下700メートルに轟音を立てて流れる長江を見下ろしている。その車道の中間地点から慎重に断崖絶壁を下っていけば、上に雲がかかった高さ数千メートルの岩肌を仰ぎ、すぐ横には長江が、まさしく怒涛となって岩にぶつかり、岩は長江の波涛を粉砕して、とてつもない轟音が谷中に響きわたる。そんな峡谷の底の岩の上で、この小さな身独り、ただただ座り尽くすのみだった。本当に凄い。魂が吸い取られて言葉が出てこない。これぞ造物者の無尽蔵。
チベット高原に端を発する水の一滴一滴が、波涛となって巨大な峡谷をつくり、四川盆地に1億余人を潤して三峡を横切り、はるか下流を長江となって流れ、武漢、南京、そして上海、と数億の民を養っている。長江もメコン川もブラマプトラ川も、ぜんぶこの雲南とチベットとの境に端を発して、巨大な峡谷を形作っている。三つを併せれば、おそらく十億以上の民を養っていることになるのではないか。それに、稲作だって茶の栽培だって、このへんが起源なのだ。陳腐な表現だが、母なる地、とはこういう場所のことなのだろう。
それで、この母なる雲南省だが、日本のように山が多いのみならず、本当に広い。39万平方キロメートルって(日本より広い)。だいたいこの雲南ひとつで日本と同じサイズ、雲南省の中にあるそれぞれの少数民族の県ひとつが、ヨーロッパの小国ひとつに相当する。地理的にも文化的にも、だいたいそんな感覚だ。で、雲南とチベットとの境近くのここから、ラオス国境までバス移動するのは本当に大変なのだ。乗り継いで30時間近くかかってしまう。そこで安い航空券を買ってしまった。チート。予定変更して、明日にはラオス国境まで入ってしまいます。明後日には中国脱出かな?
丽江
はしゃいでチベット高原を自転車で駆け回ったおかげで、息切れはするわ、全身筋肉痛になるわで、えらいことに。高地特有の群青の空の下、ときどき強烈な風に煽られつつも、今日は標高3200メートル地点まで行くことができた。だいたい50キロぐらい走ったことになる。この程度の距離でばてないように、普段から運動しておきたいもの。
ここは南北に伸びる大きな谷になっていて、その南には麗江のまちがあり、北にはチベットの6000メートル級の山々が聳え立っている。高地ゆえにどれだけ植林しても森ができないのだが、そのおかげで素晴らしく見晴らしがよい。今の季節はちょうど谷の中のナシ族の村や畑に桃の花が咲いていて、まさしく世外桃源の趣を呈している。
驚くべきは、この荒涼たる高原の谷にそれなりに村があって、昔から生活が営まれていることだろう。のみならず、そこら中に8世紀ぐらいに建立された寺や廟がある。だいたい、この谷は古代、いわゆる茶馬古道として雲南とチベットとを結び、雲南で採れる茶の主要交易路になっていた。 稲作も、茶の栽培も、遡ればここ雲南一帯が発祥という。
稲作がわれわれの文明を支えていることは言うまでもないし、茶は近代世界システムを形成する際の主要な交易品になった。今でこそ沿岸部から来た富裕な観光客に収入を頼るこの荒涼とした谷も、かつては文明の源、要だったということになる。なぜ2000年近くも前に、こんなところに道を開き文明を築いたのか。判然としないままに山から谷を見下ろしていた。
とはいえ、驚くようなことではないのかも知れない。われわれの、この近代文明も、文明の辺境部とでもいうべき欧州に端を発するのだから。
生存报告
おはようございます。広州から列車に揺られて一晩で昆明、さらに寝台バスに一晩ゆられて、今は雲南省の麗江にいます。
当然中国なので、twitterもfacebookも見られません。連絡いただいた方々、ご容赦ください。gmailは見られます
ここは明代の街並みがそのまま残っている、素晴らしく美しい場所で、もうあと何日も滞在したい気分です。世界で唯一、未だに象形文字を使用しているナシ族の文化など、歴史的、文化的にも非常に興味深い地域。そういえば稲作の起源もここらのようで、雲南省博物館では、日本の弥生時代に酷似した少数民族の文化を知ることができました。遠い遠い中国の山奥に来たのに、山の辺の道あたり、あるいは伊勢神宮を歩いて日本の古代文化に浸っている。そんな不思議な気分です。
ただ、チベット高原の端っこに位置しているので、緯度の割にクソ寒いです。明日は長江の最上流域、標高5000メートルの高原を散歩してきます(死亡フラグ)。だいたい、街中にいても遠くに目をやれば、5、6000千メートル級の山々が聳えている。凄いところです。
来月はじめには、ラオスに入国できているといいな。
われわれの、分裂してしまった祖国について
一ヶ月と二週間あまり、日本を去るにあたって。
3月11日を迎えたのは、山東省の泰安でのことだった。次々ともたらされる「日本壊滅」のニュースはあまりにも衝撃的で、否が応にも「祖国」を意識させられた。中国人たちの気遣いは(あの国民は実際のところ、相当に優しい人々なのだ)、「被災国民」としての意識をわたしに植えつけた。中国にいたとはいえ、インターネットを通じてわたしは幾許か「祖国」の人々と一緒になることができた。それで、「国難」を乗り越えようと。
しかしあれから11ヶ月ほど経って見えてきたのはむしろ、「祖国」を刻むさまざまな分裂線だ。恐らくあの時東京で騒いでいた人々の意識と、被災地での現実とでは違っていただろう。現にそういうことは何度も叫ばれている。わたしの故郷は大阪だが、家族親類にとって「震災」とは紛れも無く、17年前のあの震災のこと。わたしだってあの時は「被災者」だったのだ。今の世の東京の人々で、神戸の震災住宅の独居老人孤独死問題を知る人がどれほどいようか? 「被災地への長期の継続支援」を叫ぶのなら、神戸のことも知っておくべきではないか?
もっと現実的な話をしよう。被災地に流れた義援金がパチンコに使われているだの、そういった話をたまに聞く。わたしにとっては、驚くほどの話でもない。わたしが生まれ育った世界では、貧乏人は毎日ひたすら、パチンコと消費者金融とピンサロと競馬と…にゼニを搾り取られて、そうやって生きていくものだった。要は、貧乏人が暮らす「祖国」と、金持ちの暮らす「祖国」とが隔絶し、分裂しているという話だろう。どちらも、互いの「祖国」をあまり知らないし、知ろうともしないのだ。そこから論じるべきではないのか?
あるいはこういう話もしておきたい。ちょっとした縁で、友人とわたしとで、沖縄県選出の政治家にお話を伺う機会があった(これについては近いうちに記事を上げたい)。そこで見えてきたのは、大震災での「トモダチ作戦」の陰に隠されようとしている、沖縄の問題だった。東京の、本土の、「日本の」人々は、「同じ日本国民」が津波に流され、原発に苦しめられる、そういう国難に切に心を痛め、支援の手を差し伸べた。しかし「同じ日本国民」が、例えば息子が米軍属の車が起こした事故で不慮の死を遂げたのに、地位協定のせいでまともに起訴することもできていない。そういう事件や事故は、現に沖縄でいくつも発生しているのに、本土の人々は支援するどころか、メディアは大きく報道していないのだ。
40年前、沖縄県はわれわれの「祖国」に復帰した。その時掲げられたスローガンの一つに、「小指の痛みを全身の痛みとして感じて欲しい」というものがあった。なるほど実際東京の人々は、東北という「小指の痛み」を「全身の痛み」として感じているのかもしれない。しかし沖縄はというと…やはり未だにわれわれの祖国から切り捨てられ、分裂したままのように思える。
東京と「被災地」、西日本と東日本、金持ちと貧乏人、本土と沖縄… 「絆」によって「祖国」が一つになったつもりになっていても、いつも分断線はわれわれの「祖国」を這っている。ならばせめて、「祖国」が分裂しているという現実ぐらいは、認めたらどうか。
今年の3月11日は、わたしはビルマの地で迎えることになりそうだ。忘れないで欲しい、彼の地では先の大戦中、18万余の日本人が(これも忘れないで欲しい、大半は徴兵された「普通の」日本人だった)命を落とした。その内8万余柱の遺骨は、未だに帰国を果たせていない。遠い遠い異国の地で、未だに帰りたい、帰りたいと叫んでいるのだろうか。彼らは未だに、われわれの「祖国」から切り離されたままだ。
書桌
这么多年来,我终于有了一张安稳的书桌,可以安心地写停止多年的日记。自从二零零四年十二月十三日,我与刘晓波同一时刻被北京警方传讯、抄家之后,我便放弃了写日记的习惯。而此刻,我有了一个“风能进,雨能进,国王不能进”的家(尽管是暂住的朋友的家),却再也没有人闯入并掀翻我的书桌了。
(https://twitter.com/#!/yujie89)
“もうここ何年ぶりだろうか、ついに静かな机に向かって、長きにわたって中断していた日記を安心して再開できるようになった。2004年12月13日、わたしと劉暁波は同じ時刻に北京警察に連行され、家を荒らされた。わたしは日記を中断せざるを得なかった。でもいまは、「風は吹く。雨も入ってくる。だけれども権力者は入ってこない」、そんな家に滞在できるようになった(しばらく居候する友人の家だけど)。もう家に乱入してきて、わたしの机をひっくり返す人もいない。”
下手な訳だけど、原文は本当に佳い文章だと思った。「体は牢獄の中に入れられ、書くことすら禁じられているが、それでも彼は、縦横無尽に思考を巡らせることができる」
懐素「自叙帖」
戴公
又云馳毫驟
墨列奔駟
満座失声看不及
目愚劣…
人生識字憂患始
姓名粗記可以休
何用草書誇神速
開巻戃怳令人愁
我嘗好之毎自笑
君有此病何年癒
自言其中有至楽
適意無異逍遥遊
近者作堂名酔墨
如飲美酒消百憂
乃知柳子語不妄
病嗜土炭如珍羞
君於此芸亦云至
堆牆敗筆如山丘
興来一揮百紙尽
駿馬倏忽踏九州
(蘇軾:石蒼舒酔墨堂)
人生ロクに勉強なんかできない方が、幸せだったのかも知れない。
試験勉強やら資格やら何やらに追い立てられる日々(そう、成績が良かろうが悪かろうが、苦しみというのはやってくるものだ。)、
一体こんな勉強が出来た所で何の役に立つのか。いや、こんな勉強が出来た所で、いつも追い立てられるような生活から解放されるわけでもない。
とはいえ勉強して本を読んで…というのは一種の憑き物の病のようなものだ。
文字による学問の中に至上の楽しみがある。わたしの生活はこじんまりとしていて、身動きも取れないけれど、眼は文字の中を自在に泳ぎ、魂は古今東西あらゆる所を気ままに飛んでいくのだ。
「酔墨亭をこしらえて、美酒に酔えば百憂も消える…」
「狂僧懐素、草書を好みて、自ら言う、草聖三昧を得たりと。棄筆堆積し、山下に埋めて筆塚と号す」―ふと思いついて筆を振るえば立ちどころに百枚を書き、意識は世界をかけめぐる。
千年前の人間も、たぶん同じ気持ちだったのだろう。
USSR posters
(出典: huguri99)
冷戦in日本 現時点でのまとめ
埼玉編
埼国(大埼民国)と北埼玉(埼玉民主主義人民共和国)を分断する軍事境界線付近で、小規模な軍事衝突があった模様です。
東武野田線・JR川越線によって南北埼玉は厳しく分断されており、地下資源を有する秩父の去就が注目されています。
…
20××年6月25日、北埼玉人民軍は突如、不法に中立地帯であった与野に侵入、南埼玉に侵攻し、備えを欠いていた埼国軍は各地で敗北を重ねた… 情勢を逆転させるために東京率いる県連軍は越谷急襲作戦を決行、これを成功に収め、逆に北埼玉に軍勢を進めた。
東京率いる県連軍は北埼玉人民軍を利根川近くまで追い詰め、埼玉の自由統一を成し遂げる目前まで来ていた。だが突如、群馬部族義勇軍が利根川を渡って侵攻、群馬軍の猛攻に県連軍は敗北を重ね、再び浦和が北埼玉によって解放された…
東京率いる県連軍の猪◯元帥は、群馬部族義勇軍の策源地である群馬トライバルエリアを空爆するように石◯大統領に進言したが、これが群馬の裏につく関西大連合との最終戦争に繋がることを恐れた大統領は元帥を解任、戦線は膠着状態に移っていった。
3年間の戦争の末、南北埼玉と東京率いる県連軍・群馬部族義勇軍の代表は、南北埼玉の戦線上にあるさいたまスーパーアリーナに介し、ここで休戦協定が締結された。
埼玉戦争によって、東京の都会流の洗練された文明にも、部族的で原始的な闘争によって大きな打撃を与えられることを核心した群馬諸部族は、部族の精神力と人力によって巨大古代文明を築きあげる大躍進政策に邁進するようになったが、これが親分・関西連合との軋轢を生み、阪群対立につながっていく。
阪群対立の中で、北埼玉は独自の外交路線を希求し、強固な「首領制」の下で、「主体性」を確立していった。一方群馬諸部族は、古代文明建設の不可能を悟り、やがて「改革・開放」による東京流の都会文明の受容へと舵をきっていった。こうして、北埼玉は孤立を始める…
大阪の書記長橋◯の下、東京に対抗する強力な勢力を築いていた関西連合だったが、時が経つとともに東京に対する劣勢が明らかとなり、群馬諸部族の「改革・開放」路線が奏功し始めた頃に、始めて東京文明の流入を許す「改革」や「情報公開」が行われたが、それは逆に連合の解体を招来してしまった。
群馬の「改革・開放」、関西連合の解体によって孤立化した北埼玉は困窮し、やがて自らの体制を保証するために、埼国や東京に対して、「浦和を火の海にする」「東京を火の海にする」と恫喝をかけるようになっていった。
東京・埼国・栃木は、北埼玉に原発を建造してエネルギーを供給する「埼京枠組み合意」を行ったが、北埼玉はこの原発を利用して核開発を行おうとした。この北埼玉の動きを憂慮した県際社会は、埼国・北埼玉・東京・群馬・大阪・栃木による「六者会合」が開かれるようになった。
東京首脳部「埼玉浦和は自由日本最後の牙城であり、関西連合・群馬による野蛮文明化・ハシズム化に対する偉大な防波堤であります。都民の皆様方におかれては、友好県・大埼民国への財政援助に何卒ご賛成いただけるよう、よろしくお願い致します」
長野・山梨編
問題は長野だった。長野は東部を東京率いる自由日本が、西部を関西連合率いるハシズム日本が掌握していた。東部地帯では相次ぐ人民蜂起が相次ぎ、これに憂慮した東京は西部長野を空爆、西部長野の首脳であるタナー・カヤ・スオは抗東救信戦争を呼びかけた。
長野では東西の激しい戦いが続いたが、長野人民の激しい蜂起によってついに東長野が解放され、全長野がハシズム化された。長野戦争への介入は、東京に大きな痛手を与えた。
(RT @Litvyak365: 知らぬ間に@nebulosuspluvia 氏によって我が祖国埼玉が分断国家にされておる。北埼玉の首領様は神話では聖なる武甲山の生まれとなっているが、実際は大阪の西成生まれだったりするんだろうか。)
さて、もう一つの問題は山梨であった。当時阪群対立が進行していたが、山梨では群馬寄りの急進政権が成立し、全ての都会文明・貨幣経済を追放して原始生活に戻るという、急進的な部族主義政治が行われていた。山梨首脳部は隣接する親・関西連合の長野を「修正主義」と批判、緊張が高まっていた。
そして県境紛争から、ついに百戦錬磨の長野軍が山梨に侵攻、瞬く間に山梨に傀儡政権を築いた。これに怒った群馬諸部族は、「懲罰戦争」と称して碓氷峠を越え長野に侵攻したが、百戦錬磨の長野軍の敵ではなく、逆に撃退されてしまう。
しかしやがて群馬諸部族は古代文明建設路線の不可能を悟り、東京から都会文明と観光客を受け入れる「改革・開放」路線を行う。軍事に偏重し孤立していた長野もまた、東京から都会文明と観光客を受け入れる「刷新」路線を採択してしまった。
長野は山梨から撤退した。だがこれは、八王子に逃げていた旧・群馬派政権や親東京派のゲリラが再び山梨県内に入ることを許し、山梨県内では長野派・群馬派・東京派による三つ巴の熾烈な内戦が始まった。
新潟編
「新潟式社会主義」を名目に極端な商業への禁圧と国際的孤立を深めた軍部の政策によって、米どころ新潟が他県からの米の援助に頼るという異常事態が発生。国民の怒りは頂点に達し、反軍部デモが起きるも、軍部はこれを弾圧し、「新潟法秩序回復委員会」(NLORC)による独裁体制を敷いた。
東京を中心とする自由日本陣営は新潟の軍事政権に対して経済制裁を実施、新潟は「改革・開放」を進める群馬諸部族の経済進出に頼らざるを得なくなったが、群馬諸部族による経済植民地化が進み、止む無く新潟軍事政権は民政移管による制裁解除の方向へと進んでいる。
鹿児島編
東西冷戦のもう一つの舞台は九州だった。東京の官僚と密接に結びついた九州南部の薩摩連邦では、武士階級が農民階級を隔離し厳しく農民を搾取する「隔離」政策が行われ、また薩摩はその圧倒的な武力で他の九州各県に介入していた。
東京率いる自由日本陣営は、イデオロギー的・利害的親近性から薩摩連邦を支援。一方東京支配から独立した九州各県は、関西連合率いるハシズム陣営の傘下に入ろうとしていた。
(RT @asayukikomatsu: アパルトチェストーッ!! RT@nebulosuspluvia 東西冷戦のもう一つの舞台は九州だった。東京の官僚と密接に結びついた九州南部の薩摩連邦では、武士階級が農民階級を隔離し厳しく農民を搾取する「隔離」政策が行われ、また薩摩はその圧倒的な武力で他の九州各県に介入していた。)
また薩摩は、「信託統治」の名の下に琉球を支配、現地住民から激しい搾取を働いた。各地で薩摩に対する敵意が沸き起こっていたが、薩摩はその圧倒的な武力で不満を押さえつけていた。
東北編
一方、東京の「裏庭」と化していた東北各地では、東京による土地巻き上げ・原発建設が日常化しており、県民は経済援助のため東京に頼る一方、「反原発」を訴えるハシズム・関西連合へ傾くゲリラ勢力も現れた。
しかしながらこのようなゲリラ闘争・武装闘争路線は、確かに一定の支持を集めることが出来たとはいえ、経済的・軍事的な力の差から破れざるを得ず、歪な経済・社会構造を抱えつつも、東北各県は東京の庇護の下に発展していくことになる。
岡山編
(RT @Litvyak365: @nebulosuspluvia 岡山には岡山市を中心とする備中にはヒンドゥー教徒が多数居住していたが、備前と備後ではムスリムが勢力を拡大していた。千葉から独立を勝ち取った後」、岡山から備前と備後が飛び地状態で独立。みたいな。まあ備後は広島ですが…。)
千葉・東京編
@Litvyak365 今更ながら岡山が千葉の植民地という設定(必然ですが)に笑い転げましたwwww
@Litvyak365 いいですねー。さしずめ下総=イングランド、上総=スコットランド+ウェールズ、安房=アイルランドで、江戸川・葛飾・江東あたりがニューイングランドで、東京は千葉から独立した設定ですね。
RT @Litvyak365: @nebulosuspluvia で、東京もニューイングランドから徐々に西へと国土を広げていって、ネイティブ・タチカワンなどの抵抗に遭いながらもこれを鎮圧し、八王子の併合をもって「フロンティアの消滅」を宣言するわけです。高尾山には東京都旗が翻ります。
@Litvyak365 さらに膨張を続ける東京帝国主義は、ついに群馬への橋頭堡=埼玉を確保し、最後のフロンティア・群馬を目指すわけですね。で、そこから埼玉戦争へ。
以下、続く(たぶん
「党の基本路線を100年動かさずに守り続けよう!」(広西チワン族自治区の農村にて)
ただのメモ。S研発表とかで使うつもり。
①「ゴルバチョフ改革がソ連の解体の原因であり、ゆえに中共中央は政治改革に恐れを抱いた」
→・そもそもゴルバチョフは「経済に手を付けず、政治に手を付けた」わけではなかった
・胡耀邦・趙紫陽らの「党と国家との分離」の実効性、そしてそれがいかなる党内の権力政治と結びついていたか
・最終的にどのような背景から、鄧小平は「政治改革なしの経済改革」に足を踏み切ったのか?
②「①党中央が改革を推進しようとしても、地方が抵抗している、②地方が改革しようとしているが、中央が妨害している、③中央は改革に関する壮大かつ長期にわたる計画を持っている。これら3つの仮説は全て誤りであり、④中央は経済改革から来る要求に応じて、最低限の政治改革を行うだけだ、といえる」
・「経済」と「政治」はどう違うのか?
・80年代の「党と国家の分離」と、近年の選挙改革などに代表される政治改革との違い
③「92年の南巡講話を境に、”周縁からの改革”から、”中央からの改革の囲い込み”に変化した」
・「大包干」の認可や、80年代の政治改革は、「囲い込み」ではなかったのか?
・いわゆる中国のState Capitalism(国家資本主義)はどのような形で形成されたのか
・「経済改革から来る要求」は周縁からというより、中心から?
④ソ連崩壊と、それと並行していた「南巡講話」前後の中国での動きは、ベトナムや北朝鮮にどのような影響を与えたのか?
・「先軍政治」との比較。そもそも北朝鮮ではState Capitalismは不可能(既に現出している?)のか。State Capitalismの現出に対する、現存政治体制の脆弱性の問題か?
・ベトナムにおける腐敗や国営企業の破綻と、中国における「和諧」の行き詰まりは似ている。その裏にある利益政治。いかに両国はState Capitalismを完成させたか、その過程と環境。プーチン時代のロシアとも比較して。
→
・日本(55年体制)や韓国(全政権以降)のような、中流層を生み出す利益政治が、State Capitalistな中国やベトナムには存在しない? 台湾(蒋経国時代)とも比較して。←南巡講話以降のState Capitalism(中央からの改革の囲い込み?)モデルが持つ限界。
・日韓と違い、いわゆる「人口ボーナス」が「人口オーナス」に変化する時期が早く、故に「中進国の罠」にはまる危険性が指摘されている中国において、将来的に共産党執権の正当性はどうなるのか?←そもそも共産党執権の正当性が、State Capitalismに根ざした「発展」に変化したのはいつからなのか?
・以上2つの要素は相互に依存し密接に絡み合っている。
・そもそも南巡講話以降の「改革」とは何だったのか?(ここに集約?)